私(吾れ)がここに来たのは
物(質)について教えるためではなく、生命について教えるためである。
肉体について教えるためではなく、霊について教えるためである。
これを理解する者は少ない。
物(質)のあるなしに心が囚われ、
物が増えたら信仰を高め、物が減ったら信仰を失って、
身体が健康になったら神を讃え、
家族の誰かが病気になったら信仰を失うのは、
神を信じているのではなく、物を信じているためである。
物というものは結局変化して移り変わるのだから、
物のご利益の上に建てられた信仰は、
物が変化するだけで壊れるものなのである。
神が病気を治してみせるのは、
肉体は心がけ次第でどうにでも変化させられるという事実を見せて、
身体とは念の影なのだという真理を人間に悟(覚)らせるためである。
念の影とは肉体のことばかりではない。
幽体も霊体も念の影である。
「死は無い」という言葉は、肉体のことを指すのではない。
実際、肉体の細胞は一瞬ごとに死んでは生まれている。
変わりなく生き続けているのは、この元となる「生命」のみである。
「生命」のみが私(吾れ)であり、そなたであり、そのほかには私もそなたもないのである。
この「生命」のことを”みたま”と呼んでいる。
みたまの形は珠(玉)のように真ん丸いから、みたまというように解釈しているものもあるが、
真ん丸いのは形のことではない。
神には本来形というものはなく、空(くう)に満ちあふれ自由自在なものであるから仮に円相(真ん丸)と呼んでいる。
自由自在だからこそ、あるときには龍神の姿になったり、
またあるときには衣冠束帯(貴族の正装)の姿になったり、あるときには天使や天童の姿になったりしている。
いづれの姿も仮の姿(権化)であって、嘘(偽り)ではない。
しかし、一つの形だけに囚われて、それだけを自分だと思うことは、
私(が伝える)の真実を理解していないのである。
私(が伝える)の全相(全て)というものを理解していないのである。
そなたたちも神の子なのだから、私と同じ(存在)である。
肉体はそなたたちの仮の姿であって、そなたたちの全相(全て)ではないのである。
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